昭和52年02月20日 特別奉修委員



 先日あの、合楽だよりのあの、編集の人達があの食事の時に、話し合いをするからというので、私の部屋で私と久富先生と、それからあの正教さんと幹三郎とそれから、あの信司郎さんと五人で、あのお食事させて頂きながら、あの話し合いをしたんですけども、色々お話ししながら、私がお杯に二、三杯お神酒を頂いておった時に、久富先生がちゃんとしとるけんであんた頂かんのちゅうたら、したらもうしまえましたげな。
 私が二三杯頂いておる間に、もう飲んでしもうちゃる。もういつも二人ならゆっくりゆっくりですから、あの所がその信司郎さんのあの、自動車運転で飲まれん、あの栄四郎、幹三郎と正教さんは、どっかあの福岡じゃったかな、いかなんからあのあちら一本づつ出た。だかあらあの人の分を飲まにゃんちゅう気がある訳ですよね。だからもうあっという間に呑んでしまってある。あんたばっかりはほんに、あのもう条件に及ばんちゅうてから、私が言うた事でしたけどね。
 あの好きな者の前にそんなに下品になるです、人間が。はもう二人ん時にはもうそん大体、ちびちび飲むとがもうそんいかんとでしょうばってん、私がもうわざとじゃないけどゆっくりゆっくり頂くもんですから。そしてねこれだけの酒でね、丁度いい加減にならんならん有り難く頂いたなら、それに慣れるちそいでもう水飲むごてがぶがぶ呑むなら、絶対酔わんよち私が言う。
 そりゃ成程三本ここに残とるから、はよ飲まにゃですね、ほかんもんが飲むならでけんと思うてから、そりゃもう性根の中にそういうものが私が言う訳です、目の前でね。そういうものがあるから、そういう事をするんだと私が。まだ私が二三杯しか飲んどらんと、あんたまだまだ入っとるちいうからね。今日の朝のご理解の中に、あのほんとにあのあれを飲んではならん、これを食べちゃならんこれをしてはならん、と言った様な金光教の信心は絶対ない、とこういうお話をしましたですね。
 頂きながら楽しみながらと言う事は、けれども神様が人間のほんとに喜ぶ事なら、幸せになる事の為なら、下さるのであるから頂かなければいけない。けれどもさもしい心で頂いてはいけないそこにあの今日のご理解の一服という意味が御座いましたですよね。あの言うならば、同じ休むんでも景色のよか所で、景色を眺めながら一服でけるとこ、丁度そこになら、水なら水があるからその水のある所で、休むとかというね、なんじゃらただ休みさえすりゃよかじゃいかん、酒でもを飲むでもやっぱりそうです。ね。
 ほんとに神様有り難う御座いますと頂いて、味あわせて頂く味わいでなからなければいけない。人間を下品にしてはならない、でけるだけ上品に優雅に振舞わせたい。そこに人間の幸せが、本当はあるのだと、まぁあん奴ばっかりは、どうどうした下作かやつじゃろうかともう言うたり思われたりしただけで、もうおかげは頂かれんとですからと、頂いて良いどころではない、又なら神様が、あのこう何ていうんですかね、ならあの可愛がっておる、その猫なら猫にね。
 例えばそこに泥棒猫のように、あの生臭けと思うたら、もう飛び掛って食べてくわえて逃げて行く様に、と言った様な事ではいけない。しつけをちゃんとして初めてよか猫です。したらならよか猫にはちゃんと人間が、ならちゃんと与えるごとなっとるです。それをその泥棒猫のような生き方を、これは酒だけの事じゃありません。一事が万事の上にそうです。だから私共の心の中に人間のね、もういうならばあの鬼と仏が一緒に住ん、同居しておるというふうに言われますけれども。
 いうならば上品な心と下品な心が一緒にある訳ですから、いうならその下品な心が、出たんではおかげにならん、矢張り上品な心、人間らしゅう神様がお育て下さろうとする働きがあるから、そこん所が私はあの、あの一服とかまたは、頂いて良い所ではない、人間なんでも頂いて良い、けれども頂きようがある。そこに信心とは道をちゃんとつけてくれるもんだと言う事なんですね。信心によってそこを頂く時に、あわてんですむ下作にならんですむと言う事になります。
   どうぞ。